釜援隊ストーリー~漁業の担い手育成・定着支援編~

「魚がいるだけでは駄目なんだ。そこに、漁師がいないと」

釜援隊一(いち)熱い海への思いを持って、漁業の担い手育成事業を支援しているのが第五期の齋藤孝信隊員です。

齋藤隊員の出身は福島県。漁師の祖父を持ち、自身も釣具関係の仕事をしていたところ釜援隊の募集があることを知り、50代にして釜石へ移住。

「震災以降、何もできない自分にもやもやしていたところに、ピンポイントでやりたいと思える漁業関係の仕事であり、迷わずに応募した」といいます。

そんな齋藤隊員に釜援隊協議会が課したミッションは、100年先を見据えた浜の担い手育成。協働先は全国から水産関連の情報が集積する岩手大学釜石キャンパスとなり、業務内容には県・市・漁協・漁師から結成される漁業の担い手育成協議会のコーディネートが含まれていました。

海が好き、釣りが好き。その一心で釜石の浜へやってきた齋藤隊員ですが、漁業が置かれている現実は大変厳しいことも誰より感じていました。高齢化、少子化、水揚げ高の減少…釜石の浜が抱えている問題は、いずれも震災の前から続いてきたものであり、自治体や漁協など関係者が解決のため試行錯誤を繰り返してきたものなのです。

漁業の担い手育成協議会も関係者の合意が難航し、齋藤隊員の着任後も発足されないまま数か月が経過。

何故、漁業の担い手確保、育成、定着事業は上手くいかないのか。

朝は市場に顔を出して漁協職員と会話をし、車にはいつでも船にのれるようにとカッパと長靴、救命具を備え、港で顔を合わせた漁師の話を聞きながら、齋藤隊員は地域の「狭間」を探しました。

そうして見えてきたのは、自治体、漁協、漁師…関係者間の「誤解」。その理由は「本音の会話が出来ていない」ことであったといいます。

そんな状況がわかりやすい例が、漁業の就業フェアでした。

東京や仙台などの都市でひらかれる就業フェアには、漁業の担い手を求める漁協や漁師が参加。仕事の内容、待遇や漁師の暮らしぶりを紹介しながら、専用のブースで志望者と面談をします。

釜石からも毎年ブースを出展してはいましたが、後継者確保に一時的には繋がるも定着に至ることはほとんどなかったといいます。

齋藤隊員が関係者に詳しく話を聞くと、「就業フェアは漁協職員と漁師にまかせっきりだ」と話す方もいれば、「漁協職員はフェアの準備に消極的だけれど、本当に担い手が欲しいと思っているのだろうか」と話す方もあり。いざ、面談を経た志願者が漁師のもとで修行を始めると、受け入れる親方は「どうやって弟子を育てて地域になじんでもらえればいいのか」と困惑する様子も。

いずれも関係者の会話不足から生じたすれ違いではありますが、互いがライバルである漁師コミュニティでは協働・連携といった習慣が少なかったことも影響していたのだろう、と齋藤隊員は分析します。

「誰かが悪い、悪くない、といった問題ではなく、中に居る人だけだと何が問題か分からないことがある」

齋藤隊員はヨソ者・半官半民のコーディネーターという立場をいかし、漁協の中堅職員や漁師の交流会を開いたり、自治体職員と先進地視察に行ったり、つながりの基盤を数か月かけて整備。そうして、漁業の就業フェアには県・市・漁協・漁師――関係者全員で臨めるよう気運を高めていきました。

2017年7月、東京と仙台で行われた就業フェアの会場では、齋藤隊員は行政職員と一緒に会場内を回って参加者アンケートをとり、興味がありそうな人にはブースに案内。面談では、齋藤隊員が事前に作成した資料(『漁師になるためのフローチャート』)を渡し漁師と参加者の意思疎通をアシスト。結果、「一番盛り上がっていた」と話す釜石のブースに訪れた面談者は過去最高の人数となりました。その中から8人が漁業体験をするために釜石に来たことが、大きな自信につながったと関係者は話します。

就業フェアをきっかけに、2人の漁師志望者が釜石に移住し、親方のもとで修行をしています(2018年1月現在)。

「困ったときに助け合える、横のつながりがないことが問題」と考える齋藤隊員は、漁協の女性部に声をかけて新人漁師歓迎会を開催。休みの日には一緒に釣りにいったり、懇親会を企画したりしながら地域のコミュニケーション量を増やしています。

「海には男のロマンがあるからね」自らの夢と新人漁師の未来を重ね合わせる齋藤隊員。

2017年12月、ついに発足した「釜石市漁業担い手育成プロジェクト」の記者会見では、関係者を代表し「この機を逃すと受入れ、育成、定着がさらに難しくなる。今が担い手の確保のラストチャンスだと思って、協議会一丸励んでいく」と語る姿がありました。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

長岡ゆう さん/釜石湾漁協自営定置乗組員
※年齢・肩書は取材当時のもの

漁師に憧れるようになったのは中学生のころ。きっかけはTV番組で、命がけの仕事をしている間に見せる笑顔に惹かれました。

高校は入学早々に辞め、漁師になろうと決めました。学校で友達と居るのは楽しかったけれど、「何か違うな」と思ったんです。自分のやりたいことではないな、と。勉強も好きではなかったし(笑)まずは漁業の就業フェアに行き(釜石外の)サンマ船に乗りました。ただ、現実はそう甘くなくて…自分が描いていたとのとは違う漁だったので、船を降りました。

もう1度自分に合う場所を探していた時、出会ったのが釜石湾漁協の定置網でした。 毎朝3時に起きて、十数人の先輩たちと漁に出ています。仕事は見て覚える方式なので、先輩たちの背中を見て、次の動きを予想しながら動く感じです。 親方も先輩も、思っていたより優しいですよ。海の上なので、一つのミスが命に関わることもあります。そういう失敗をしたときは大きな声で怒鳴られますが、自分の為なので、怖くはないです。

釜石の人たちは、コミュニケーションが丁寧だと感じています。孝信さんのような支援員のひとも他の地区にはいませんし、温かいです。

もし、自分のように漁師になりたいと思っている人が居たら「自分が感じたことを大切に」と伝えたいです。楽しそう、と思ったらやってみるべきだし、これは違うんじゃないか、と思ったらそれはやめたほうがいい。自分の最初の感覚を信じることが大事だと思います。まずはやってみる。そして、その感覚は大概正しいと思います。

今自分は、とても楽しいです。

「担当隊員コラム」 齋藤孝信(協働先:岩手大学三陸復興・地域創生推進機構釜石サテライト)

こちらのコラムは2016年9月21日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。
私には漁師の血が流れています。母方の祖父は福島県相馬市の漁師でした。一緒に船に乗ったり、網の魚を外したり、爺さんの後ろ姿を見て育ちました。

しかしあの日の津波によって、私が子供の頃に遊んだ砂浜や港は姿を変えました。「あの風景は戻らない。浜の再生はどうなるのだろう。」当時、滋賀県で釣り具の製造・輸出入業を営んでいた私は、故郷の様子をTVで見ながら、やるせなさで一杯になったのを覚えています。

あれから5年が経った2016年の春、「故郷と同じ東北の浜で何かできることをしたい」と第5期に応募しました。

「最悪」の未来像

悲しいことに、震災以前から漁業は多くの問題を抱えています。日本の多くの港で、漁師の高齢化や後継者不足、魚価の低迷、漁村集落の存続危機が叫ばれてきました。  

釜石の漁師の数は、現在およそ千人。10年前の6割に減っており、更にその半数以上が60歳以上と推計されます。今は頑張って漁業をしている方々も、いつかは辞めてしまいます。その後、新規就業者が少ないと何が起こるでしょうか。

水揚げ高は減り、皆さんのお手元に届く「釜石産」の魚が減ってしまうのです。漁村の「経営者」である漁協でも、手数料収入や購買・共済部門の売り上げが減ります。漁協は辞める漁師に出資金を返還しますので、収入は少なくなる一方で支出は増えていきます。若い漁師が家族のために頑張って稼ごうとしても、漁港からは人が居なくなり、活気が無くなっていく…。浜で人手の必要な共同作業を行うとなると、本業を休んで駆り出されることも増えます。限界漁村の出現です。

会社なら、これは「新入社員ゼロ」と「退職者急増」という局面です。そうならないように、漁業を大局的に見て問題点を捉え、手を打たなければなりません。たぶんそして、それが出来る最後のチャンスが今なのです。

後継者育成に向けた産学官連携

今、市が中心となって「漁業担い手育成協議会」設立の動きがあります。行政、漁協、漁師が真剣に「これからの漁業のあり方」を話し合い、具体的で有効な施策を打つためです。8月末には第一回の「設立準備会議」が行われました。

主なメンバーは県沿岸広域振興局水産部、市産業振興部水産課、そして私の協働先である岩手大学三陸復興・地域創生推進機構釜石サテライトです。私もさまざまな関係者間をつなぐコーディネーターとして貢献したく思っています。 

父親のあとを当たり前のように継いで、漁師になる人が多かったのは過去の話。これからは、後継者候補を増やすために、地元の子供や市外の若者に漁業を体験してもらう場づくりなどの工夫が必要です。参加者の中から漁業に就業してくれる人が一人でも多く出て欲しいですし、就業後に独り立ちできるような行政側の支援についても協議会で話しあう予定です。

漁師の魅力発掘

漁は男のロマンです。人間の思い通りにならない自然を相手にする漁師には、ダイナミックな働き方が求められます。漁師の一番の魅力は、「大漁の時に沸き立つ気持ち」だと皆さん口を揃えておっしゃいます。

時化(しけ)が続けば「晴漁雨読」。また、釜石漁業のメーンである定置網漁や養殖漁業の場合は、朝早くから仕事している分、午前中に仕事が終わることも多いですから、家族との時間もたくさん取れます。

内部で担い手候補の受け入れ態勢を整備しながら、外部には「漁師と漁村の魅力」をもっと発信したいと思っています。

「魚がいるだけではダメなんだ。そこに漁師がいないと」

「さかなのまち」釜石の復興と、漁業の再興は切り離せません。浜がにぎわい、地元の魚が食べられてこその「故郷の再生」です。せっかく世界三大漁場の三陸沖が目の前にあっても、漁師がいなければ駄目なのです。

「太平洋をオフィスにして働く漁師志望の若者よ来たれ!」

釜石の胃袋を支える漁師を増やすために、頑張っていきます。

広報佐野が見る「漁業の『危機』」

一次産業の後継者問題は、これまで多くの人たちが考えてきたと思います。それにも関わらずいまだ有効な解決策がないのは、「打つ手がない」のではなく、「本音で話しあう場」が足りないからだ、という齋藤隊員の言葉に、私は救われる思いがしました。

違う立場の人たちが、今の漁業に何を思うかを話しあう。そんな場づくりも、一朝一夕で実現できることではないのでしょう。しかし、釜石の水産業をめぐり、新しい変化が起こっていると取材を通して教えていただきました。

震災が起こってから、漁業の将来に改めて向き合う人の数は少しずつ増えており、これから設置される「漁業担い手育成協議会」も、これまでの復興活動でさまざまな人たちが連携した経験が基盤となり活動していくようです。

岩手大学釜石サテライトで漁業の後継者育成事業に取り組む田村直司さんは、「水産業は、3.11をきっかけに生まれ変わらなければならない。多額の税金をかけて復旧した港だからこそ、賑わいが戻るのを漁師さん自身にも感じて欲しいし、市民の皆さんにも見届けて欲しい」と話します。そのためにも、自分たちの浜の将来を想像し、危機感を持つ人が増えて欲しいと願うのだそうです。

齋藤隊員の故郷である相馬市の松川浦は、かつて東北で指折りと言われた水揚げ高を回復するべく、さまざまな課題の解決に取り組んでいると聞きます。釜石の港でも、8月末の台風被害を受けた地域の復旧作業が続いています。

大きな困難に立ち向かうときこそ、同じ未来を目指す人たちが膝を突き合わせることで、「これから」が始まると期待しています。