釜援隊ストーリー~釜援隊導入・コミュニティ形成支援編~

こちらの記事は2017年10月~12月発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

01 行政と住民の橋渡し 「コーディネーター」はここから始まった

子どもたちを応援する声が響く、唐丹中学校の仮設校舎。始業前の午前7時に校庭を走っていたのは、地域の駅伝大会を控える生徒と、東京から来た支援者たちでした。

2012年の夏、(一社)RCF復興支援チームは東日本大震災の被害を受けた唐丹地区を訪れます。釜石市はハード面の復旧計画をつくりながら、仮設住宅などでの心のケアやコミュニティ形成を進めている時期でした。

前年に発足したRCFは、都心の企業に勤めていた人々が中心となり、外部支援者が出来る長期的な支援方法を模索していました。釜石市復興推進本部と協議し、スイスに本拠を置く金融機関UBSグループとも連携しながら、住民に寄り添いコミュニティ形成を助ける復興コーディネーターの派遣を決定したのです。

唐丹での活動を始めたのは、岡本敬史さん、山口里美さんなどの四人。仮設住宅に住みながら、地域の皆さんと日常を共にしました。草取りやラジオ体操に参加し、中学校の駅伝コーチをつとめることもありました。「何のつても持っていない自分たちを、唐丹の方々は温かく受け入れ、いろいろな方に紹介してくれた。それが本当に有り難かった」と岡本さんは振り返ります。

里美さんは、毎日のように地域の寄り合いに顔を出しながら、住民の皆さんがどんなことを不安に思っているか、その声を拾い集めました。見えてきたのは、「復興計画に具体的なイメージを持てていない」「まちづくりに自己決定感がない」という課題でした。

原因の一つは、行政と住民の相互理解不足です。例えば、復興計画の住民説明会に出ても、内容がよく分からないと思う方もいたようです。里美さんたちが詳しく話を聞くと、道路建設の専門用語が難しいことや、あいまいな表現が多いことが理由でした。行政職員も説明の仕方を工夫していましたが、地権者との交渉が難航し、確たることを言えないという事情を抱えていました。

個人の思いと地域の合意に、距離を感じる人もいたようです。被災状況が異なったり、別の地域から移り住んだり、異なる事情を持つ住民ではまちづくりの優先順位も異なります。どこに復興公営住宅を建てるのか、どんな防潮堤を建てるのか、といった議論が白熱する一方、女性や若者は発言をためらってしまう傾向もありました。

一方的にまちづくりを決められているという感情や、数年後に自分がどこに住んでいるのか分からないといった戸惑いは、コミュニティの再構築を遅らせる要因にもなっていました。

行政と住民のはざまを埋めながら、地域の人びとが一緒にまちづくりを考えられるサポートが必要だ―このときのRCFの経験が、翌年に発足する「釜石リージョナルコーディネーター(釜援隊)」の構想につながったのです。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

見世健一さん(59)釜石市地域づくり推進課長
※年齢・肩書は取材当時のもの

唐丹地区生活応援センター長に配属されたとき、朝、センターの窓を開けると壊れた家の姿が見えました。震災の約一年後で、被害の跡がまちに残っていました。応援センターは地域の医療福祉や生涯学習、まちづくりの拠点となる場所です。コミュニティ形成に携わるのは初めてだったので、自分に何ができるのだろう、という不安を抱えていました。

しかしそれからの3年間は、言葉を選ばなければ、人生のなかでも最も充実した仕事をした期間でした。辛い時期であったにもかかわらず、唐丹の皆さんは、皆で前を向こうという気持ちで団結していました。家に帰れば悲しまれていた方もいたと思います。せめて人前では明るくいようと振る舞う姿に、私の方が励まされ、力をもらいました。

地域の人たちが自ら頑張ろうとしているときに、RCFの皆さんが現れ、さまざまなアイディアやネットワークをくれ、思いを実現してくれました。地域の有志が災害史をまとめていたときは、睡眠時間を削って編集や出版作業を手伝ってくれました。スカットボール大会を企画したときは、100人以上の参加者を集めてくれました。そのうち住民の皆さんも以前より明るい顔になるようで、私も本当に嬉しかったです。

RCFも、続いて唐丹に来てくれた釜援隊の山口政義さんも、住民の声を丁寧に聞いてくれたことが一番大きな支援でした。地域の人にとっては、知り合いや行政職員には相談しにくいこともきっとあるからです。いろいろな人の間に入って橋渡しをしてくれるコーディネーターは、私にとって大きな存在です。

02 交流増やし、笑顔咲く地域へ 唐丹で見えた釜援隊の役割

この日が待ち遠しいと話す人も多い、唐丹町民スカットボール大会。その始まりは2012年の秋、唐丹地区にある仮設住宅での会話でした。「被災して違う集落に移った方も多いんですね」「もう随分、友達の顔を見ていないよ。会いたいなぁ」―会話の主は(一社)RCFの清末彰胤さん、唐丹すぽこんクラブの体操教室に参加する方々、運動指導員の佐久間定樹さんです。

RCFがコミュニティ形成支援のため唐丹地区に住み始めて約半年。仮設住宅をまわって心配事を聞いたり、難解な復興計画の説明会を開いたり、住民と行政の橋渡しをしていました。痛感したのは、全員が納得する復興計画をつくることの難しさでした。それでも未来に希望を持つためには、人とのつながりが必要ではないか。そう信じたRCFは、海外ボランティアとの食事会などさまざまなイベントも開きました。もともと結束力の強かった唐丹地区。こんな時こそ一つになろう、とリーダーシップをとる方々のもと、各集落での活動は増えていました。

一方、集落を越えた人々の交流は、震災以前よりも少ないままでした。集落ごとに被災状況が異なり感情の差異が生まれていたこと、唐丹地区全体で集まるお祭りが震災を機に途絶えたことなどが原因でした。

故郷の人たちを支えたいと同年に釜石へ帰ってきた佐久間さんは、離れている人たちが会える場を企画したいと清末さんらRCFと話し合い、老若男女が楽しめる新しいスポーツ・スカットボール大会を考案。町内会長など地域の方々に協力を仰ぐと、唐丹すぽこんクラブと唐丹公民館、唐丹地域会議、唐丹町内会連合会が共催する一大イベントになりました。

会場となった体育館には、各集落から参加者がつどい、友人との久々の再会を喜び、手をとりあって涙を流す人もいました。RCFの山口幹生さんは「会いたい人に会えること、それが『このまちで生きたい』という気持ちにつながるんだと感じた」と振り返ります。

好評を博した同大会は翌年以降も継続され、多い年では100人以上の方が集まる恒例行事となりました。年代を問わず主役になれる競技のため、大会参加を目標に体操教室などに参加する高齢の方も多いそうです。また、地域の子どもと大人たちが互いを応援し、世代を超えた一体感も生まれていると佐久間さんは話します。

同時期に唐丹以外の地区でも聞き取り調査をしていた山口幹生さんは、人をつなぐ支援が他の復興現場でも必要だと気づきます。地域に根差し、地域のために頑張っている人を応援する黒衣(くろこ)となる復興支援員を、市の事業として設置するべく復興推進本部と協議。「唐丹地区のような活動を全市に広げて欲しい」という市議会議員の発言も後押しになったそうです。

制度設計には中越地震の復興支援に携わった有識者らの意見も取り入れながら、2013年4月に「釜石リージョナルコーディネーター(釜援隊)」が発足。釜石市内で7名の隊員が活動を開始しました。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

上村年恵さん(69)元唐丹町小白浜仮設住宅自治会長
※年齢・肩書は取材当時のもの

仮設に入ったばかりのころ、困ったのが入居者同士の仲たがいだった。でも、私たちは皆同じように津波で物を流されて、同じ気持ちのはず。いつか「仮設にいたときは楽しかったね」と話せるようになりたいよね、と話したら周りも賛成してくれた。小白浜仮設はそこから一つになった。

考えたのは皆が参加できるもの。毎日ラジオ体操のテープを流して、体操教室も開いてもらった。「一緒にやっぺし」と声をかけるうちに、女の人も男の人も気軽に参加するようになって、笑い声が絶えない仮設になり嬉しかった。スカットボール大会では、小白浜仮設の選手を応援するために「流れ組」と書いた旗をつくった。周りは驚いて、たくさん笑ってくれた。辛いときだからこそ、笑顔が必要。そうじゃないと心が寂しくなってしまうから。

この数年で、唐丹の人たちは一緒に何かをすることが増えたと思う。震災の前は、それぞれが養殖や畑仕事などの仕事を持っていて、集まる機会も少なかった。仕事道具を流されてしまった人も多かったから、身体を動かして健康でいようと声をかけあうようになった。

子育ても仕事もひと段落して、自由に動ける時間が増えた今だから、地域への恩返しをしたいと思える。若いときは自分のことに精一杯で、当然。そうして順番に支え合えっていけたらいい。

03 協働増やし復興進める 地域の誇り・魅力を可視化

テーブルに並んだ子どもたちの写真を、大人たちが囲んでいました。映っているのは、もうすぐ唐丹中学校を卒業する生徒たちの小学生時代。卒業式の数日前に東日本大震災が起こった彼らは、小学校の卒業アルバムを受け取れませんでした。

2014年1月、そのことを知った佐久間定樹さん(唐丹すぽこんクラブ)と釜援隊の山口政義さん(2016年卒業)は、3年越しの卒業アルバム制作に乗り出したのです。漁協や町内会などに協力をあおぎ、集まった数十枚の写真を編集。同年の3月24日、卒業生16名にお手製の卒業アルバムを贈りました。生徒たちは顔をほころばせ、「大人になったら唐丹のためになることをしたい」と誓う子もいました。

山口さんと一緒に地域の協力を集めたのは、当時唐丹地区生活応援センター所長の見世健一さんでした。生活応援センターは市内8地区に設置された行政機関です。地域ごとの保健・医療・福祉を強化するため保健師が配置され、センター長は公民館長も兼任して生涯学習を推進しています。設置当初の関係者によると、その名前には「郷土愛を育み、地域の将来を共に考える場を増やすことで、まちづくりを自ら担う住民を応援したい」との願いがこめられているそうです。

2013年4月、釜援隊第一期として唐丹地区生活応援センターと協働を始めた山口さんは、震災で甚大な被害をうけた唐丹に何が必要かを考えました。漁業で栄えた歴史や、伝統芸能や数百年続く祭事が残る唐丹。一方近年では、生活の多様化に伴い人々が集まる機会も減り、唐丹を離れる若者も増えています。震災で顕在化した社会課題を解決するためにも、山口さんは「唐丹の皆さんが地域の魅力を再認識し、そこで生きることに喜びを持てるきっかけをつくろう」と決意しました。

山口さんが初めに企画したのは昔のお祭り映像などを投影する上映会です。生活応援センター協力のもと各仮設住宅で開催すると、知人や家族の懐かしい姿を見られると大好評。回を重ねるごとに参加者が増え、引きこもりがちな高齢男性も訪れるようになりました。

生活応援センターと地域団体の共催イベントでは、山口さんも関係者の調整や助成金の獲得などを手伝いました。民謡教室や市外遠足は、高齢者の交流の場に。唐丹のシンボルである桜並木の剪定(せんてい)作業は、地域の財産に人びとが今一度目を向ける機会になりました。

2014年8月には、公民館と唐丹すぽこんクラブ、唐丹小中学校が協力し、全集落の子どもたちを対象に海水浴&シーカヤック体験を開催。震災を経験した子どもたちが、再び唐丹の自然に親しむ機会をつくりたいという見世さんの思いにさまざまな人が共感し、実現した事業です。

見世さんは「業務だからではなく、誰かを喜ばせたいという気持ちだった」と当時を振り返ります。そうして2015年度に唐丹地区で行われた公民館事業は25、例年の二倍以上にのぼり、唐丹の人びとをつなぐ新たな誇りとなりました。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

下村惠壽さん(68)元花露辺地区町内会長/唐丹すぽこんクラブ事務局長
※年齢・肩書は取材当時のもの

子どもに「豊さ」を教えるのに唐丹ほど良い地域はない。海の幸があり、歴史的遺産があり、人びとの情も厚い。地域外の人とも積極的に協働する文化がある。

私が住む花露辺地域では、かつて人々が同じ船で漁に出て、家族のように支え合って生活していた。震災時は行政の支援が来る前に自分たちで安否を確認し、助け合って避難した。復興の過程でも意見集約を自分たちで行い、防潮堤を建設しないと合意した。

以前は、地域の魅力や歴史を皆で考える機会はほとんどなかった。地域を思う気持ちがあっても、どう過疎化の解決につなげられるか分からなかった人も多いだろう。(一社)RCFや釜援隊は、住民が当たり前だと思っていることが都会では宝なのだと伝えてくれた。地域の資源に付加価値をつけて、市内外に発信してくれた。震災をきっかけにさまざまな人が訪れ、郷土を見直す機会を得たことをいかしたい。

人生で最後に残るのは情だろう。人への思いやり、優しさだ。唐丹では住民も支援者も情に厚い人が多く、困った時には誰かが助けてくれるという安心感がある。現代の若い世代には、どこか不安な気持ちで生きている人が多いのではないか。子どもたちも、その親たちも、唐丹に来て心のゆとりを得て欲しい。

震災が起こった今、生かされた私たちはこれからどうすべきかと考える。心の豊かさを今一度皆と分かち合いたい。

04 引き継いだ、唐丹の誇り 「さくら祭り」に重ねる地域の未来

高齢化率44%、少子化・過疎化も進む唐丹町は多くの社会課題を抱えています(2017年11月時点)。一方、これまで地域活動に携わってきた人びとは地域の未来に希望的です。「人口は減るけれど、唐丹ならそのときに合った幸せをつくれる」と佐久間定樹さん(唐丹すぽこんクラブ)は疑いません。

東日本大震災からの復興のため、地域で力を合わせた数年間がこの言葉を生んだのかもしれない。そう思わせるひとつの例が「釜石さくら祭り(唐丹町大名行列)」の復活でした。

さくら祭りは、大名行列や神楽、虎舞、太鼓などの伝統芸能が奉納される天照御祖神社の式年大祭です。三年に一度行われる祭事として約三百年間受け継がれてきましたが、震災の影響で2012年以降は開催を中断。道具が津波で流され、開催場所も未復旧なため、山口政義さんが釜援隊に着任した2013年当時は関係者の多くが「まだ祭りの再開は無理だ」と話していました。

しかし、地域には祭りの復活を望んでいる人が多いと山口さんは感じたそうです。仮設住宅などで昔の祭り映像を上映すると、参加者は涙ぐみながら思い出を語りました。山口さんが住民の皆さんから祭りの歴史を教えてもらっていると、 次第に「さくら祭りは無理でも各自の伝統芸能を披露する場ならつくれるのでは」という声が広がり、2014年4月に地域会議は唐丹町初となる「郷土芸能祭」の開催を決めました。

三陸鉄道再開に合わせて開催された郷土芸能祭は、市内外から観客が集まり大成功を収めます。今ならさくら祭りも再開できるのでは、と前向きな意識へ変わった関係者たちは、ついに祭り再開に向けて動き出しました。

山口さんも助成金の獲得を手伝い、限られた資源でさくら祭りを成功させる方法を関係者と話し合いました。その過程では町内会などの地域団体と唐丹中学校が協働で虎舞を保存する取り組みも生まれ、山口さんも協力。別集落からは鉄砲隊の担い手として参加するよう要請を受けました。

そうして2015年4月、六年ぶりにさくら祭りが行われ、多くの人に見守られながら神輿や大名行列が町内を練り歩きました。伝統を継承したいと集まった中学生が舞を披露する姿には、住民の皆さんから感動の声が寄せられました。

天照御祖神社の責任役員をつとめた川原清文さんは「最初は皆さんへの負担を心配したが、祭りを見た人から『ようやく震災へのもやもやした気持ちが吹っ切れたよ』と声をかけられ、心からやって良かったと思った」と当時の喜びを振り返ります。

2016年に釜援隊を卒業した山口さんは現在、任期付の市職員として唐丹の公民館事業や祭事の運営協力を続けています。地域と企業が連携する買い物弱者支援などにも携わっていると、地域のさまざまな人が行事を一緒に成功させたという経験がその下地になっていると感じるそうです。

2018年はさくら祭りの開催年です。担い手不足や環境の変化とどう向き合うか、話し合わなければなりません。復興に向けて少しずつ広がってきた協働の輪。唐丹の人びとが再び集まる季節がやってきます。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

佐久間定樹さん(35)唐丹すぽこんクラブ クラブマネージャー
※年齢・肩書は取材当時のもの

市内の高校を卒業してからは別の自治体で運動教室の講師をつとめていた。約十年間釜石を離れていたが、いつも故郷の姿が胸にあった。津波で自宅は流され、まちの景色もゾッとするほど変わった。それでも、帰ってこられて良かったと思っている。

帰郷当時は、避難所や仮設での健康問題が話題になっていた。自分の経験をいかせると思い、市体育協会と連携し運動教室を開いた。市内では新しい取り組みで初めは珍しがられたが、皆で体操しながらおしゃべりするのが楽しいと口コミが広がり、今は市内で三百人以上が参加している。

唐丹では海水浴や遠足、ビーチ雪合戦大会、スカットボール大会などの新しいイベントを企画し、花火大会やお祭りの運営にも携わってきた。嬉しかったのは、普段は顔を合わせる機会が少ない同世代の人たちも、積極的に協力してくれたことだ。若者は地域行事に参加したがらないと言われるが、声をかければこちらの予想以上に楽しんでくれる。そういう人が実はたくさんいるのではないかと思う。

山口さんは地域の皆からとても信頼されている。ちょっとした会話からでも「じゃあ、やってみますか」と行動するし、伝統や歴史に着目したり助成金の存在を教えてくれたり、地元住民に新しい視点をくれる。多くの人に支えられ、自分もだれかを支える日々は充実していて幸せだ。

そんな生き方を後輩たちにも伝えたいが、受け皿となる仕事が地域に必要だ。自分のような新しい働き方を増やすためにも、運動教室の成果を参加者の医療費減少額などで可視化したいと思っている。