釜援隊の「社会的インパクト評価」

「社会的インパクト」とは、短期、長期の変化を含め、当該事業や活動の結果として生じた社会的、環境的なアウトカムのことです。(社会的インパクト評価イニシアチブHPより)

※参考記事

釜援隊流!ロジックモデル~水産業六次化支援編(期間2013.04~2015.10)~

釜援隊ストーリー~水産業六次化支援編~

こちらの記事は2017年8月~9月発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

01 競争から共栄へ 漁業の願い包んだ「海まん」

素材を厳選した大ぶりのホタテに、旨味を凝縮した炙りサバ。三陸の海の幸をふんだんに使った海鮮中華まんじゅう「釜石 海まん」は、「釜石復興のシンボルをつくりたい」と願う人たちの想いも包んでいます。

開発したのは「釜石六次化研究会」。震災復興への取り組みを機に集まった市内の事業者たちです。経歴も業種もさまざまなメンバーをつないだのは、釜石の水産業に対する「危機感」でした。

日本全国の漁業現場において、乱獲や気候の変動による資源量の減少が問題となっています。沿岸部の漁獲競争が激しくなる一方、釜石が抱える課題の本質とは「変化する状況に対応するために協力し合う姿勢が不足してきたことではないか」と関係者は話します。

例えば、水揚量(漁港の市場にあがる魚の量)を増やすための工夫。他地域では遠方から来る廻来船を港に呼び込もうと、官民が連携し宿泊施設などのインフラを整備しましたが、釜石では同様の対策がうまく進みませんでした。

また最近では、市場に出荷するだけでなく、インターネットを活用し売り上げを伸ばしている漁業者が日本各地で増えています。宮城県の女川町では、そのような新しい事業を始める若い漁業者をベテラン漁業者が応援し、切磋琢磨する気運が高まっていると聞きます。

しかし、釜石ではそのような協働事例があまり増えていません。その理由の一つとして、地域の漁業者は「釜石には企業城下町の風土が残っている。水産業に限ったことではないが、人々が協力して積極的に商売する気風がなかなかうまれなかった」ことを指摘しています。

東日本大震災は、釜石の漁業が抱えていたこれらの問題を顕在化させました。釜石では漁業者の約八割が被災し、操業の中断を余儀なくされました。2016年の水揚量は2010年の約六割にとどまっています。

「これからは市内外の人が知恵や資源を出しあって、『危機』を乗り越えなければならない。」まだ震災の傷跡が色濃く残る2013年、「地域一体のシンボル」となる商品の開発に着手したのが、釜石六次化研究会と中村博充隊員でした。

研究会に参加したのは、市内食品加工会社の代表や老舗製菓業者などの5人(発足当時)。メンバーが共有していたのは「子どもたちのために釜石の水産業を発展させたい」という思い、そして「そのために必要な『変化』を、自分たちの世代で起こさなければならない」という決意でした。

何とか「ライバル同士」である個人経営の漁業者をつなぎ、共に発展する仕組みを作れないか。メンバーが思案の末に行き着いたのが、地域にある未利用資源の食材を活用し、生産・加工・販売を同地域内で行う「六次化商品」の開発だったのです。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

宮崎洋之さん(47)三陸いりや水産株式会社代表/釜石六次化研究会代表
※年齢・肩書は取材当時のもの

自分の根底にあるのは日本人としての「助け合い」の精神だと思っている。海外の食産業界で働いていた数年間、日本人には当たり前と思える共助の文化がどれほど貴重なものかを知った。東日本大震災が起こったときは、避難所で一つのパンを分け合う日本人の姿を、各国のメディアが称賛していた。これからの水産業には、日本という島国が、限りある資源を共有しながら培ってきた精神が必要だと信じている。

震災直後に妻の実家がある釜石を訪れたとき、「これからは、このまちのために生きよう」と心を決めた。すぐにパリの仕事を辞めて釜石に移住し、食品加工の仕事を始めた。その約1年後に、釜石の復興に携わる過程で出会った「仲間」に声をかけ、釜石六次化研究会を立ち上げた。

商売の基本は「儲かること」だが、「本当に大切なことは何か」と考える人が社会に増えていると思う。これからは、経済と公共の利益を同時につくる仕事が主流になるのではないか。釜援隊はその先駆者だと期待しているし、研究会でも同じビジョンを持っている。

市外出身の私が地域で新しいことを始めるのには大変な側面も多い。しかし、人には必ず「役割」がある。若い頃は自分のために時間を費やしてきた。これからは、自分に与えられた「役割」を果たすために生きる時間なのだと思っている。

02 開拓者の黒衣、釜援隊 事業者つなぎ「変化」を後押し

レシピも設備も、全て地域の共有財産。商品開発はあくまで手段であり、大切なのは人々が一緒に物をつくる場づくりである―釜石六次化研究会は「釜石を支える新しい協働の文化をつくる」との決意で、「復興応援 キリン絆プロジェクト」の審査員の心を動かしました。

大手飲料メーカー・キリングループは、2011年から三年間で約60億円を拠出し、東日本大震災被災地の復興活動を支援していました。協働者の一般社団法人RCFは、2013年に釜石六次化研究会を支援先として推薦。明確なビジョンを持っていることに加え、水産業を軸に和菓子や酒類の製造・卸売り会社など多様な事業者が参加していることがその理由でした。

支援を打診するにあたり、キリングループは六次化研究会が目指す「漁師などの一次産業者と食品の加工・販売を担う二次・三次産業者が共に発展する仕組み」を具体化するよう求めました。しかし、メンバーは本業や自社の復興に追われており、集まる時間すらなかなか持てなかったそうです。

そんな六次化研究会からの要請をうけ、釜援隊協議会から配置されたのが中村博充隊員でした。釜援隊の第一期となるため都内の企業を辞め、 釜石へ移住した中村隊員は当時25歳。強い覚悟を持った事業者の皆さんを前に、自分が出来ることは何か考えたといいます。まずは各社が持っている食材や技術、バイヤーとのネットワークなどを個別に聞いて表に整理。メンバーが「潜在的な資源」を多く持っていると示す狙いがありました。会議では進行役をつとめながら、自分の意見は決していわなかったという中村隊員を「人々をつなげ、その活動を応援する黒衣(くろこ)」として評価する声もあります。

また、商品開発では利益計算が重要ですが、このプロジェクトでは「釜石の食ブランド発展が、各事業者の商品価値も高める」という長期的な視野を持つことも必要でした。「正直なところ、個々の会社に短期的なメリットは望めない。しかし、中村君の『釜石の食を、首都圏に発信しましょう』というスタンスを見て、自分たちに『損』な活動ではないと思えたし、誰がどんなコストを負うかという話し合いでも揉めなかった。」六次化研究会のメンバーである菊地広隆さん(小島製菓代表)は中村隊員の果たした役割をこう振り返ります。

リーダーの宮崎洋之さん(三陸いりや水産代表)を中心に話し合いを進めた六次化研究会は、2014年5月「釜石オープンキッチンプロジェクト」の構想をまとめ、キリングループに提出しました。各メンバーが「原料・加工技術・販路」のいずれかを提供する「釜石 海まん」考案。また、他の事業者にもこの活動を参考にしてほしいと、六次化研究会のノウハウを第三者と共有する意思も示しました。

キリングループは「釜石の産業発展を牽引する団体になってほしい」との願いをこめ、六次化研究会への助成を決定。釜石で初めて、水産業六次化の基盤が整いました。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

君ヶ洞剛一さん(39) 有限会社ヤマキイチ商店専務
※年齢・肩書は取材当時のもの

あの頃はまちの復興のために必死だった。震災後に発足した市民団体に参加するようになり、そこで知り合った宮崎さんや菊地さんと六次化研究会を立ち上げたのも、自分にとっては自然な流れだった。

色々な活動に携わったことで、自分の考え方は変わったように思う。昔は商売人として一匹狼でも良いと思っていた。今は違う意見の人とも交流して、その人の「良いところ」を取り入れようと思えるようになった。それも、市内外の人と新しい縁ができて視野が広がったからだろう。まち全体を見て、自分の「役割」は何かを考えるようになった。例えば、以前は市外のバイヤーが来ても自社との関係で完結していたけれど、今は市内の事業者につなげるようにしている。

地域貢献を経済活動に昇華させたのが「海まん」であり、これからへの決意も含んでいる。商売上の利益はまだ少ないが、いずれ次につながる。そして必ず自分たちのためにもなると信じている。もちろん、そう思えるまでには様々なことがあった。まずは自分を大切にできないと、他人のためになることはできないと感じる。

困っているからではなく、共通の利益のために助け合う。商売人として、その感覚を大切にしたい。

03 思いをカタチに 市外へ発信、釜石のポテンシャル

復興のシンボルとなる商品として釜石六次化研究会が選んだのは「海鮮中華まんじゅう」でした。その理由を、代表の宮崎洋之さんは次のように話します。

「私たちがつくりたかったのは、個社のヒット商品ではなく、釜石の食ブランドだった。仙台の笹かまぼこや博多の明太子のように、地域の店が同じ商品をつくる…そんなビジョンを描いたとき、水産加工食品のなかでも、餡のようにミンチ状の具材は応用がしやすいというアイディアが出た。」更には、水産卸売り店や製菓店を経営するメンバーのネットワークや技術も存分にいかせる「海鮮中華まんじゅう」。メンバーの期待は膨らみました。

2014年の春には、市内の老舗醸造会社専務の小山和宏さんも六次化研究会に加入し、いよいよ本格的な商品開発を開始しました。しかし、顧客ターゲットや餡の味付けなどを決める話し合いでは、異なるこだわりや経営経験をもつメンバーの意見がなかなかまとまりません。「魚の味が強いと好き嫌いが分かれてしまう」「『海まん』なのだから、魚介の風味は必要だろう」などの話し合いが深夜まで続くこともあったそうです。開発作業や販売戦略の議論が進まないまま、キリングループから設定された期限は迫りました。

「意見を言い合っているだけではだめだ。皆が納得できる工夫をしなければ」と、宮崎さんは自身のネットワークを使って市外のフレンチシェフに協力を依頼。数種類の試作品をつくってもらい、メンバーに意見を求めて修正を加えながら、合意を促しました。また、販売戦略についても自ら顧客やバイヤー情報を集めて議論の土台をつくり、会議時間の短縮をはかったそうです。

その思いを形にする伴走者として、中村隊員は資料作成やタスク管理を任されました。また、宮崎さんと他のメンバーとの協働を進める仲介役にもなりました。例えば、各人の課題意識を事前に聞き、会議の場で中村隊員からその話題に触れる。全員の意見を一度共有したうえで「全体統括は宮崎さん」「生地の発酵作業は小山さん」と役割分担をするなど、一つ一つの合意を得ていきました。

多くの課題に直面しながらも、協働を進めた六次化研究会。製造面での小山さんの活躍もあり、2015年の夏に「釜石 海まん」はついに完成しました。都内で行われた商品発表会には、野田武則釜石市長や当時の小泉進次郎復興大臣政務官もかけつけ、地方を支える新しいビジネスとして全国のメディアに取り上げられることとなりました。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

小山和宏さん(52)藤勇醸造株式会社専務
※年齢・肩書は取材当時のもの

震災後、「連携」を意識し始めた事業者は増えていると感じる。自社でも、他社とのコラボ商品が複数生まれた。パートナーと一緒に試作品をつくったり、コンセプトを話し合ったり、意志を共有しながら販売に至った商品はお客様にも反応が良い。商品には魂が宿ることを実感する。

六次化研究会には、メンバーそれぞれに大きな強みと強い個性がある。宮崎さんは、海外の食産業で築いたネットワークや豊富なアイディアを持っている。君ヶ洞さんの海産物に対するゆるぎない姿勢も刺激になる。全員が持ち味を生かしながら、積極的に関われる仕組みや環境が必要だ。

二社ですら意見が分かれるのだから、六社の連携はさらに難しい。中村隊員は調整役として素晴らしい活躍を見せてくれたし、六次化商品としての「海まん」の開発コンセプトは素晴らしいと今でも思っている。

その一方で、改善すべき点もある。ヒット商品にするためには開発のプロセスで何が足りなかったのか、どう進めるべきだったのか、自分なりに分析してきた。今後の私たちの商品開発に生かしていきたいと思っている。

被災した自社は市内外の方からたくさんの支援を頂き、約二年をかけて復旧した。「海まん」開発を援助してくださったキリングループにも、心から感謝している。これまで助けてくださった市外の方々、支えてくださった地域の方々への恩返しの気持ちも込めて、郷土を支える産業の発展に今後も携わっていきたい。

04 六次化研究会、第二章始まる 教訓胸に次の高みへ

「キリン絆プロジェクト」を終えた釜石六次化研究会は、2015年秋の「釜石 海まん」販売開始とともにKamaroq株式会社の設立を決定しました。異業種のメンバーが取締役や株主をつとめながら、代表取締役には中村博充隊員を抜擢。2017年2月以降は宮崎洋之さんが代表を務めています。

市外を中心に販売された「海まん」は、メディア報道の効果もあり一時はウェブサイトがパンクするほどの注文が殺到しました。幸先の良いスタートをきりましたが、その後は売り上げの伸び悩みに直面。良い対策を講じられないまま、約1年が経過しました。

本業の合間を縫って進める取り組みで、利益がなかなか増えなければ士気も落ち込みます。しかし、宮崎さんは「新たな挑戦をしているのだから、上手くいかないことがあっても仕方がない。それを面白いと思わなくては」と行動し続けました。

それまでの活動を振り返りながら、教訓として心がけたのは二つ。一つは、メンバーをつなぐ核となっている六次化研究会のビジョンを、定期的に確認する場を持つことです。それは会議の場のみならず、視察や食事の場も含まれるといいます。

もう一つは、活動に新しさを取り入れ続けることです。2016年に水産加工業者と漁師の新メンバーを迎え、より一次産業の現場に近い情報が得られるようになると、商品開発の議論も活発化。2017年12月には、形がくずれたために出荷できない「くず雲丹」を使ったリゾットが誕生しました。メンバーが紹介したバイヤーを通じて、都内百貨店での販売も決定しました。

また、挑戦を続ける六次化研究会の取り組みは、岩手の復興まちづくりに携わりたいと思う若者たちにも影響を与えてきました。これまでKamaroq(株)が受け入れた学生インターンは延べ7名。メンバーの事業者と一緒に催事場で商品を売りながら、六次産業化の意義を学びました。

20代後半の3年間、六次化研究会と協働してきた中村博充隊員は「誰かの為に働くということが自分の幸せにつながるということを知った。そういう生き方を、自分自身で決められる強さも教えて頂いた」と話します。2017年2月に釜援隊を卒業した後は、地域の社会課題を解決する事業に取り組む企業へ就職することを決めました。

発足から約5年が経過した現在、六次化研究会が目指すのは、協働者の増加です。「連携すると市外にアピールできる釜石の可能性が広がる」との実感を、地域の事業者、更には釜石市民に伝えたいとメンバーは願います。「海まん」の発売以来、市内外で事業者連携をうたった商品が増えていると話す関係者もいますが、「私たちの活動をもっと発信をしていきたい」と宮崎さんは話しています。

限りある資源を共有し、事業者が共に発展できる経済をつくる。そのビジョンに共感した方が参加できる「オープンキッチン」として、六次化研究会はいつも入口を開いています。

(取材執筆:釜援隊広報・佐野利恵)

地域の声

菊地広隆さん(34)有限会社小島製菓代表
※年齢・肩書は取材当時のもの

釜石にいる大人たちには「こんなまちに居ても良い暮らしはできない」と子どもに話す人が多い。それを覆すために自分も役割を負おうと決意し、Kamaroq(株)では取締役を引き受けた。釜石を、自分の子どもたちに託せるまちにしたい。そのためには、経済を地域で、特に水産業で回すことが重要だろうと思っている。

私も六次化研究会に入る前は、一次産業者が実際にどんな問題を抱えているかは知らなかった。メンバーと漁業者を訪問した時に、自然資源を扱う難しさや、現在の仕組みが抱える問題を肌で感じることができた。

六次産業化が進めば、釜石の漁業を支えられるかもしれない。ただ、そのビジョンを一次産業者の方々と共有するのは難しい。私たちは実際に山や海で働いているわけではなく、立場が全く違うからだ。例え怒られながらでもまずは進めよう、と活動してきた結果、漁師のメンバーを迎えられたことは嬉しい。 

私の経験上、公共性、社会性が強調されただけの商品は売れ行きが伸びない。お客さんは事業者がお金をしっかり投入している商品を好む。だからこそKamarqは法人化を決めたし、これからはマーケティングや営業に注力していく。会議室から外に出て、お客様と直接会話をする。そこで私の強みがいかせると思っている。 

私たちの取り組みは日本全国でも珍しく、成功すれば素晴らしい。しかし、「釜石では無理だった」という諦めが子どもたちに引き継がれたら、ダメージは計り知れないだろう。失敗は出来ないとの覚悟を持って、取り組んでいくつもりだ。